U  お別れ・追悼の言葉

@3月13日通夜の席にて

先生、ご遺言の通り祭壇の周りは先生の作品でいっぱいです。
書の師でもある先生はこの一心寺にも寺標はじめ多くの作品筆跡
を残していただきました。
この額も円空のパネルも・・・・・・お帰りなさいという気持ちで
お迎えさせて頂きました。
亡くなられた先生の在りし日のあのお顔にも。在りし日のあのお声
にも、もう永遠に接することはできません。またもとの土にとかえる
落ち葉かな。「振り向けば砂地に細き足あとのつづき続きて無に
かえりゆく」と柳沢桂子氏は詠っています

穿石先生が亡くなられたということはもう二度と逢えない永遠の
死につかれてその声も二度とは聞かれない永遠の無に入られた
ということでございます。永遠の死をしっかり見つめ永遠の無を
とっくり心得るようにと亡くなられた先生は自らの死によってお示しに
なっております

仏陀釈尊は嘆き悲しむ弟子達にむかってこう言われました。
「何を泣くのか。私の常に言ってきたことを思い出しなさい。
生まれたものは常に死ぬ運命を免れないということを。
ここで命を失おうとしているものは私の肉体に過ぎない。
私が悟った真理は人々がそれを信じれば滅びることはない。
そこに私は生きている。永遠に生き続けているのです。」
又、こうも言われました。「自らを灯火として生きなさい。
悟った真理を灯火として生きなさい。この世の全てのことは
うつろいゆくものです。たゆまず、怠らず、信じた道を進みなさい。」

私たちは今穿石先生を失いましたがその命は私達の心の中に
消えることなく何時までも残っています。
我々が合掌礼拝の時に閉じた眼にみ仏の姿がうかぶのと
同じことです。いつも先生はそばにいらっしやいます。新井満氏流
に言えば千の風になっていつでもどこでもあの大空を吹き渡って
見えます。

又先ほどの釈尊の遺言を穿石先生の遺言と思って頂きたいと思い
ます。それが又亡くなられた先生への最善最大のご供養かと
思います。
明日は先に仏弟子となった私が先生の頭を剃り仏弟子となる
ための戒を授け名を付けさせていただきます。
次にタイマツの作法を心をこめて行い、仏様の世界へと釈尊に
代わって引導を渡す儀式を行います。

先生は六波羅蜜を実践され迷うことなく彼岸に行かれます。
そして釈尊のお弟子としてご両親はじめ、杉雨先生、雪華先生
智芳和尚方と同じ所へいかれブッダ釈尊の弟子として私たちを
見守って頂けると思います。
心よりご冥福をお祈り致しまして終わりとします。

一心寺 住職

Aお別れのことば

聴江社代表牛田五龍

今日この様にして先生のご霊前に悲しい
お別れの言葉を申し述べることになろうとは
夢にも思いませんでした。
不肖の弟子で何時も先生を嘆かせていたのだ
と帰らぬ反省をしております。

先生は大きな知恵袋をお持ちでした。書は勿論、
文筆、絵画、舞台、植物などなんでも広くご存知でお尋ねしますと
必ず答えを出してくださいました。
書に対してはとても厳しい先生、日頃は笑みを絶やさないあの温容と
細やかな心配りで思いやりと心温まる優しい先生でした。
信州の戸隠までそば1杯を食べに、播州の白鷺城と白鶴美術館も
日帰りで行きました。愛知地球博の「祈り」をテーマにした円空仏
と心経を素材にした企画は感動させました。

お酒が飲めない先生、コーヒーやお茶でお話をしました。カラオケも
楽しみました。この偉大なる指針を失ってこの世の無常を涙し恨まずには
いられません。先生、とても悲しいお別れです。私たちは悲しみの涙を
払ってこれまでの教えを守り励んで参ります。どうか気高く天にあって
私たちの成すところを見守ってください。
先生、安らかにお休み下さい。心よりご冥福をお祈りいたします。

平成18年3月14日

ミャンマーにて

B引導より

平成18年3月14日
     導師  渡辺亮正

         (詩  偈  省略) 

春江院吉鋒穿石居士霊位     心中不惑  胸禁無疑

     八十二年万事尽誠   不厭労苦 

     二六時中精進一道   不渉多岐

霊位、号して穿石翁は若き日より書の道を求め、青山杉雨翁に師事す。
大本山永平寺には刻書を奉納し、一心禅寺の寺標はじめ祖父江町内の
多くの碑石に墨痕を残す。 謙慎書道会に属し、殊に篆隷の書法を究む。
日展等の書展に出品しては翰墨の妙を揮って独自の書風を展開し
その功績は江湖にしらる。

この地においては、社団法人中部日本書道会の理事長として会の発展の
礎を築き聴江社を主宰しつつ、中日、NHK各文化センターの講師を務め、
老若を問わず平正端整の心を養う。 又、愛知県芸術文化選奨を受賞され
中国、各国の歴訪は数十回にわたり、その見識は博く、旺盛な知識欲は
衰えたことなし。居士に学ぶもの皆斉しくその碩徳に服し、
その師風を仰ぐ。

己を律するに古木の如く勁く、人に接するに閑雅の心を以ってし、
古に学び今に通ずるを旨とす。明窓の下、浄き机に就いて、筆硯
紙墨の業にいそしむこと60有余年、その風光はあたかも清風は
袖より出でて明月は懐に入るが如し。

             豈 図

     俄然臥病患    夕照風静浮雲尽

     倉卒示寂滅    門前雨愁草樹悲

         (  以 下 略
 

三月十四日一心寺にて

C穿石先生を偲んで

伊藤白蒲

私の「父」について思うことは読書好き、コーヒー、
抹茶、犬、猫好きであった。解らないことを尋ねると
何でも即答してくれる。 今でも、不思議だなあと思う
のは父の頭の中は人間カーナビと言える。車に乗れ
ば東西南北がはっきりするらしい。

白蒲氏の穿石
先生1字表現

名古屋市内は勿論他県でも大丈夫。安心して運転が出来た。
それから庭いじり、全部自分で管理し暇をみつけては草むしり、庭石の移
動、庭師顔負けの仕事ぶりであった。 食べ物では人一倍好き嫌いが激し
い。母も何一つ文句も言わず作っていた。私が何時からか食事担当にな
ると必ず父のお小言がはいった。反面、美味しい所へも連れて行ってもら
つた。

師匠「穿石」は私が大学で書道の勉強を初めて展覧会への作品活動を
始めた頃から、「何んという偉い人」と思い始めた。 穿石の書歴を垣間
見よう。私の記憶する所から、「日展」これだけは、命がけのときもあった。
昭和33年初入選以降34回連続入選(平成5年以後不出品)。平成2年
特選。 「謙慎展」昭和40年西川春洞先生記念賞、昭和42年謙慎選奨。 
「毎日展」昭和46年毎日準大賞。 昭和63年愛知県芸術選奨文化賞
など。穿石の師匠青山杉雨先生の存在は否めない。

そしていつも私や母が留守番をしていた海外視察。昭和52年より訪中歴
20回以上。昭和63年ブラジル、アルゼンチン、ペルー視察など。ふと思
い出すと穿石が「死ぬまでに是非アンコールワットへ行きたい。」と語って
いた。平成17年3月21日から実現し土産話もそこそこ、うれしそうであっ
た。 もう既に穿石の体は肺腺癌という病魔に虫食まれていたかも知れな
い。ずっと遡って考えても。

責任感も人一倍強い人で、「聴江社主宰」という立場で、よき弟子に囲まれ、
幸せな人生であった。 が作品制作となると、いつ柔和な感じから一変する。
近づけない。ピーンと張り詰めた緊張感、もう、ここには存在しない。考え
られないが現実である。 最後に「お父さん、よく頑張ったね。もう痛くない
し苦しくないよ。安らかに眠って眠って下さい。遠くから見守っていてね。
                      さようなら    合掌。」

D穿石居士を偲んで

渡辺月潭

昨年の今頃(12月中旬)、一時帰宅された先生は蕎麦を
食べに行こうと申され、お気に入りの店へ出かけた。ぺろ
りと食べられ、この分ならもう大丈夫ではと思った。が,抗
がん剤の効果も空しくどんどん進行していたわけである。

あちこちへ同行させて頂いた事が色々思い出される。主に神社、仏閣
であった。養老のスチームサウナにも何年か通った。花バスを栽培す
るようになつた或る日、一心寺に蓮にちなんだ万葉の歌碑を作ったらと
助言を頂いた。そしてその為に奈良まで歌碑の下見にわざわざ行って
頂いた事もあった。
お陰様で半年後には完成した。当然、先生の腕を
煩わせることになり拓まで採っていただいた。この歌碑は平成15年の
7月に序幕した。

晩年、先生は円空研究の梅原猛先生に強く関心をもたれ、梅原先生
館長の無我苑(碧南市坂口町)へも出かけたこともあった。チャレンジ
精神旺盛で絶えず新しい情報をキャッチされ、直ぐに調べ、行動に移
されるのが常であった。
先生の知識は豊富で書以外の色んなことも教えて頂いたし、またよく
質問も受けた。京都の橋本関雪邸(白沙村荘)を歩いていた時、ふと
「胡乱」と書いて何んと読むか知っているかと尋ねられた。「分かりま
せん」と答えると読み、語句の意味を丁寧に教えて頂いた。
                (この字句の作品が拙寺の本堂に掲示)

平成17年のミャンマー、カンボジアの旅が最後に同行した一番長き旅
であった。丁度、亡くなる約1年前の春であった。1週間ほど寝起きを共
にさせて頂いたが持参の日本酒を飲みながら先生のお話を時の経つの
も忘れ拝聴した。

読めない掛け軸の文字、碑文なども読んで頂いた。まだまだ読んで頂
きたかった素材もあったが今はそれももう叶わない。「いいか、読めな
い漢字は何度も真似して書いて研究するんだ。そのうち読めるときが
来るよ。」とおっしゃったが浅学の身では難しい限りである。
没、2年ほど前であったであろうか。義経の手紙といわれる巻物(コピ
ー)を読んで頂いたのが最後であった。大変興味を示され、短期間に
解読して頂いた。
奥の深さとその姿勢に大きな感銘を受けたものであった。

28歳の頃、卒塔婆の字も書けないではと思い一宮の文化センターの
書道教室に入ってから30数余年の月日がたった。その教室の講師が
穿石先生であった。飽きっぽい小生がこれほどながきにわたって取り
組めたのも先生のお陰と思っている。勉強不足で力もないのに展覧会
にも出品させて頂いた。古典に立脚した作品をとよく力説され、少しや
りすぎると茶の木畑へ入った、国籍不明だとご指摘をうけたものであった。

穿石先生は天性の器用さを持ち合せ、凝り性で旺盛な探究心、努力を
惜しまない先生であった。大道は長安に通じる。長安目指して迷うこと
なく歩き続けられたと思う。そしてゴールに到着され涅槃の、安楽の地
に落ち着かれたのではなかろうか。
書の人、道の人であった。又、冬に咲く真っ白な梅花をこよなく愛され
た。まさに心腸鉄石の人でもあった。先生を花に譬えれば「梅」であり、
又「道」がふさわしい先生の1語表現ではないかとつくづく思う師走の
この頃である。
先生の脳のコンピュータをそのまま譲り受けたいものであるがやはり
自分の力で培わねばならない。とても及ばないがその姿勢だけでも忘
れずにいたいと思っている。そう、自灯明の精神を。
もうじき一周忌。冥福を祈りつつ終わりとします。

月潭の1字表現

E伊藤穿石先生を偲んで

草野清華

清華氏の1字表現

師穿石先生との出会いは、NHK名古屋放送センタービルが出来て間もない
平成4年7月開講の写経講座が最初です。
そのころの私は、健康に自信がなく、机上で手軽にお稽古できるものとして
写経講座を選びました。

講座は、般若心経から始まり、十句観音経、観音経第二十五普門品、賢愚経と
続き、半紙に六文字ずつ書くという練習方法で、漢字の成り立ちの「文字学」と
文字をバランス良く書くための「書写法」、そして経文の意味を教授するという
豊富な内容でした。

写経講座での先生は、書家というより知識人という感じでした。
後年、先生が主催する書道研究「聴江社」のメンバーに入れて戴いたとき、
あらためて偉大な師であることを再認識したものです。

昨年7月に入院されてから今年3月の退任まで、先生は来られなかったものの、
毎回のお手本は、いつもと変わらず力強く書かれていて、写経の生徒は誰も
先生のご病気がそれほど重篤なものとは思っていなかったでしょう。
先生は常々「時間は自ら作るもの」とおっしゃっていましたが、どんな状況下でも
やり遂げる姿勢を、ご自身の身をもって示されました。
私にとって、書の技以上に、書の心、人としての生き方の指針を教えて戴いた気が
します。

今年3月5日、少し早い先生の誕生祝いをするため、バースデーケーキを持って
病院へ行きました。もう声を出せる状態ではなかったけれど、私の手を強く
しっかりと握ったまま、なかなか離そうとはせず、何かを伝えたかったのかも
しれませんが、これが先生との最後の疎通となりました。

先生を一字で表すなら「陽」。私には、暖かな光りでした。
ありがとうございました。

平成18年12月末 記

F心の書

萩野潭渓(智一)

伊藤穿石先生のことを、我が家では尊敬と親愛の念を込めて、ろうばい
先生とお呼びしている。
寒い冬の花の少ない時期に大概は庭の片隅でひっそりと植えられていて、
しかも蝋細工のような艶のある花を枝一杯に咲かせている。あたり一面に
芳香を放っていて、茶人好むあの臘梅である。
何時しか暮れにご挨拶に上がると、先生はその臘梅の大木から大きな
枝を切ってくださって、頂いて来るようになっていた。家内などは大変喜んで
何はなくともこれで年を迎える気分になるらしい。先生の優しいお心使いが、
あの芳香とともに想い出される。

潭渓氏の1字表現

先生に始めてお会いしてから、もう40年近くになろうか。その間、種々な
ことを教えて頂いた。弟子ではない私に書のことは勿論、趣味のこと又
人生訓とお会いする度に何か教えを頂いたように思う。
そんな中で、デザイン博に出品される作品を制作するにあたり、お手伝い
させて頂いたことが心に残る

平成元年の夏、先生より木彫額を製作するためのご相談を受けた。
私は、神殿、神具等の製造販売をしており、又友人の野村さんは彫喜
欄間店を自営しているので木彫額のことならお手伝いができると言う
わけである。暑い日に、二人のお弟子さんと作業所においでになり、
野村さんと私を交えて五人での打ち合わせが始まった。

二階のカーテン一枚で仕切られた室の、エアコンがかけてはあるが、
それほど涼しくない所で熱の入った意見が交わされた。
先生は、「芸術の秋と言うが、我々はこの暑い夏が制作の時だ。」
とおっしやって、熱っぽく内容について語られた。
法隆寺玉虫厨子の台座にある施身問偈の一節より「諸行無常。
寂滅為楽。」の文字を選ばれた。

それを縦百八十センチ、横九十センチの杉板に透かし彫りをするのだが
欄間などに見られるように透かし彫りは、板を切り抜いて文字や文様
を表現していくのだから、例えば「口」と言う字を楷書でそのまま切り
抜くと、中側の「四角い形が」、切り取られて落ちてしまう。
文字には、そういう箇所が沢山あるので先ずはそれを落ちないように
書体の工夫をしないといけない。

又、文字の周囲を向かい合う鳳凰と蓮華の文様で飾ることにし、その上
透かし彫りの効果を上げる為、裏板には紺色の和紙を貼り、コントラスト
をくっきりとさせるように決まった。そして正に先生の「心の書」とも言う
べき作品も出来上がり、それを野村さんが彫り、私は大杉板を仕上げて、
作っておいた額縁に入れて透彫額は完成した。

平成元年九月十八日より十日間、白鳥会場センチュリープラザ四階
ホールで開催された世界デザイン博覧会協賛「こころの書・夢の書」
において、中部日本書道会の理事長であり、同展の実行委員長を務め
られた先生は会場の設営、作品の搬入、期間中の諸行事等に奔走
されたと聞く。この時の先生のご活躍は中部書道界に於いて注目に
値する一事であったと記憶している。

穿石先生は、その大杉透彫額を出来ることなら永平寺へ奉納したいと、
意向をお話しになった。たまたま私の家は曹洞宗で本山は永平寺である
ので、先ずは名古屋別院の副寺様よりご紹介頂き大本山永平寺へ法要
のお願いに上がった。
季節は早や初冬となり本山では『臘八接心(ろうはつせっしん)」の時期で
あった。十二月一日より一週間、朝三時半から夜九時まで通しの坐禅が
修行されていた。深閑とした山内の冷たく張り詰めた空気の中、私は緊張
の内に、監院(かんにん)様にお目にかかり大施食(供養)と共に大杉透
彫額の奉納をさせて頂くようお願いし、私の父が施主を務めることになった。
そのことを父は大変喜んでいた。

十二月十四日午後一時に名古屋を発った。穿石先生、野村さん、父と私の
一行は大杉透彫額を携えて、戒号参篭研修の為、大本山永平寺の山門
をくぐった。その日は、参務様のお世話になり、坐禅をさせてもらい精進
料理を戴いて早めに休む。然し本山宿泊は始めてのこと、見る物、行うこと
皆珍しく興味は尽きることなく中々寝付けない。
翌十五日早朝、辺りは真っ暗の中、大施食の法要は始まった。
冷気で張りつめた法堂(はっとう)に、百二十人の僧侶の方々が堂内に歩を
進めて読経と共に巡り続けるのである。正(まさ)しく圧巻であった。
礼拝、焼香させて頂いた後は唯仏前に平伏すのみであった。

法要も終わり興奮覚めやらない中、明るい監院室に通され、奉納された
額と共に記念撮影をして帰路に付いた。

今思うに、このことを語ることのできる者は、私一人になってしまった。
寒い季節になって臘梅の花が咲き出すと、そのことが懐かしく想い出される。
あの穿石ろうばい先生の心の書「諸行無常。寂滅為楽」の大杉透彫額は
大本山永平寺の一隅で芳香を放っていることと思う。
然も尽きることなく。
今、若者は「あの大きな大空へ翼を広げ
飛んでいきたい・・・」とうたっています。
大空へ飛んで行くことにあこがれている
のです。  穿石先生はその大空のように
優しく、大らかに皆を包み込んでしまう様な
広い心をお持ちの方であったと思います。
そして諸法は空想と書を通して道を極め
られた方でもあったと思います。

平成元年永平寺にて

穿石居士は昨年、名残雪ふりし日に涅槃に
旅たたれた。3月12日の祥月命日を
『名雪忌』と称して遺徳を偲び、恩を忘れず、
永遠に仏果菩提を祈る日とす。

名雪忌明けの平成19年3月28日(水)

より 4月1日(日)まで愛知県一宮

博物館にて遺墨展を開催。

お陰様で盛況の内に閉会することが
出来ました。感謝、感謝です。

管理人からのメッセージ

萩野智一氏

永平寺監院寮にて

萩野氏と共に


G 穿石先生の思い出     
   安藤秀川

 

 穿石先生との出会いは昭和二十七年夏だったと記憶しています。
青山杉雨先生が
千種区神田町の兼松泛香先生宅へ立ち寄られた折でした。
二人は共に青山先生に
初の面会で緊張の中での出会いでした。

その時私は十九歳で羽織袴を着用、その時の袴姿が印象に残って
いるとお褒めの言葉を後日戴いたこともありました。

 中日書道会の事務局時代には色々ご指導を賜りました。
中でも先生が事務局長時代私が初めて厚生部長に就任した折のこと、
初仕事として伊藤事務局長宛に請求書を送付しましたところ担当部長の
認印の捺し忘れを指摘され即日返却新部長としての責務の重要性を
示唆していただいたこともありました。

昭和六十二年四月には中日書道会の新理事長に就任され輝かしい業績を
遺されました。
その折には事業部長の大任をまかされ大過なく責務を全うすることが出来
ました。
 また海外旅行にも同行させていただくことも多く旅先ではいつも愛用の
茶碗を取り出し皆さんに茶を振舞われるなど雅趣豊かな先生でした。

 先生の回顧につきましては枚挙にいとまがありませんが
今はただ伊藤穿石先生のご遺作を拝見させていただき今は亡き友の
菅原智芳先生と黄泉の園で梅花の下、野点の一服を召し上がっておられる
ところを思い浮かべているところです.

平成19年3月12日  秀川記    合 掌

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